こんばんは、ひなせです。
以前から気になっていたのが、「いじめられる側にも原因(責任)はあるかどうか」というテーマ。
「そんなことはありえない。いじめられる側には原因はない」
「いやいや、そうは言ってもいじめられる側にも理由はあるでしょう」
といった形で、意見が二つに分かれますよね。
私自身も過去にいじめられていた経験がありますし、「いじめられる側に原因はない」と、つい言いたくなってしまう。
ただ、この話はいろいろな問題が絡み合っているので、いじめという問題の本質を分かりにくくしています。
あえて言いますが、この「いじめられる側にも原因(責任)はあるかどうか」というテーマは、皆で話し合ってもいじめ問題の解決には全く結びつきません。
「いじめ問題」を語った気になっているだけです。
いじめの原因はいくらでも作れてしまえる
いじめられる側に責任はある、という意見の人にとっては、いじめの理由はいくらでも作り出せます。
「貧弱」「貧乏」「背が低い」「声が小さい」「ブサイク」「デブ」「運動音痴」「頭が悪い」「生意気」「目つきが悪い」「挨拶をしない」「生理的に受け付けない」
などなど、本人の努力では解決出来ないものや、ほとんど言いがかりじゃないかというものまで、理由はいくらでも挙げられます。
ただし、ここからが重要です。
これらの理由は、その人を「気に食わない」、もしくは「嫌いになる」原因の話です。
誰かが、人を「嫌いになる」までは、許されます。
人を「嫌いになる」のは、その人の自由です。
しかし、人をいじめていい理由にはなりません。
ですから、「いじめられる側にも、人から嫌われてしまうような原因はある」という話なら、
「人間、誰だって嫌いな人はいる」
「全ての人から好かれることなんて出来ないよ」
という当たり前の結論になります。
「それでも人から好かれるために、嫌われる原因を直していこう」とか、
「でも、なかなか直せない部分もあるよね」といった話に続きます。
いじめの話をいつもややこしくしてしまうのが、「嫌いになる」ことまでダメなように言ってしまって、それまでがいじめのように扱われてしまう点です。
この部分をうやむやにしてしまうと、全ての人を好きにならないといけないといった、変な方向に話が進んでしまう。
本人達が納得していないのに、無理矢理に表向きは仲良くさせる、といった歪んだ解決方法になる。
人を嫌いになる=人をいじめていい、ではないという話を、しっかりと理解しないといけません。
嫌いな人間に暴力を振るっていい、その人の持ち物を盗んでいい、壊していい、嫌がらせをしていい、という話にはなりません。
ここの違いが重要です。
嫌いという感情を、そのまま言葉や行動にしない。
問題なのは原因では無く、その後のアクションです。
この部分を、いじめる側が学んでいく必要があります。
いじめられる側に責任はある、という考えがエスカレートすると、
肌の色や国籍や人種、性別や年齢や経済状況、嗜好や宗教や考え方に至るまで、あらゆるいじめの原因が作られてしまいます。
いや、ここまでくるといじめではなく、差別や弾圧でしょうか。
ともかく、「いじめられる原因」なんてものは幻です。
これを認めてしまうと、極端に言えば「気に食わない相手の人権は無視していい」という話になります。
いじめの解決は仲良くすることでは無い
いじめを無くす=皆で仲良くする、と考えてしまうと、いじめ問題は全く解決しません。
大人の社会でも、人の好き嫌いはあります。
ただ、建て前では「みんな仲良く」と言って、お互いの距離感を探り合っています。
表向き、仲が良いフリをすれば良い関係。
本音で語り合える親友。
仕事だけの関係。
人生を賭けてでも一緒にいたい相手。
同じ場所で空気を吸いたくないくらい嫌いな人。
人との付き合い方は、距離感がバラバラです。
ストレスを感じる距離感が続いた場合、何らかの形でその関係が破綻することを大人は知っています。
どうしても納得できる距離感で居られないなら、離れればいいんです。
ところが、いじめの解決となると、距離を縮められれば成功、と考える人が多くいます。「建て前」の部分を信じ込んで、それを目指そうとする。
特に学校は、普段の教育から、
「皆と仲良くできる人が正しい」
といった、間違った前提で話を進めてしまいがちです。
ですから、「学校」「クラス」「部活」といった、
「距離感を近くしたい」小さな箱を前提にして、
その中でいじめを無くすには、といった話をしてしまう。
よく言われる、いじめ問題の解決策として、
「学校から逃げても良い。学校に通わないという選択肢もあるよ」
という話は、いじめられる側の距離感という点では正しいです。
ただ、いじめる側の距離感も小さな箱によって狂わされているわけですから、
本当の解決を目指すなら、
「仲が良くない人がいるのは当たり前」
「仲良くじゃなくて、そこそこの距離感でいい」
といった考え方を認める、環境や制度が必要です。
いじめる側もいくらでも作れてしまえる
気を付けて下さい。
「いじめた側が悪い」という考え方も危険です。
なんでもかんでも、自分は被害者だ、弱い立場の人間だ、世の中が悪い、社会が悪い、と言い出したら、
「いじめられる側にも原因がある」を逆にして、「いじめる側が悪い」と言い訳にしているのと同じ。
「いじめられる方が悪い」と「いじめる方が悪い」という考え方は、本質的に同じ考え方です。
相手が悪いと言っているだけです。
「いじめられる側」と「いじめる側」のどちらが悪いという話は、思考ゲームのような話であって、「いじめ」という問題の本質を突いていません。
「いじめられる側」と「いじめる側」の周りや間にあるものが、いじめの原因です。
人間的に成長すれば、いじめは無くなる、なんて期待してはいけません。
大人の社会でも、人間的に円熟しているお年寄りの社会でも、いじめはあります。
いじめを無くすために、仕組みを考える
人が人を嫌いになる。その感情をまずは認める。
社会の中で、好きな人もいれば嫌いになる人もいるのは当たり前です。
全ての人と仲良くすることは、最初から目指さなくていい。
嫌いという感情を攻撃に変えてしまった、形として現われてしまうのがいじめ。
それが犯罪行為なら、犯罪として罰する。
無理やり嫌いな者同士を同じ空間に居させる必要は無い。
狭い教室や、ネットのグループでも同じ。これらには仕組みで対処する。
お互いに傷つけ合わない距離感を学ぶ。
まずは、こんなところでしょうか。
「いじめる側」と「いじめられる側」。
どちらが悪いと言っていても、言われた方が気分を悪くするだけで、何の解決にもなりません。もちろん、どちら側にも変化は必要です。
今日のところはここまで。
また、いじめに関する話を書こうと思います。