どうも、ひなせです。
読書の秋ですね! 最近になって「最後の子どもたち」という児童文学作品を読みました。
本自体はかなり前に買ったのですが、そのコトをすっかり忘れてまして・・・・・・。
たまたま読み始めたら止まらなくなって、一気に最後までページを進めてしまいました。
今回はネタバレを含む感想です。ご注意下さい。
●「最後の子どもたち」と「飛ぶ教室」の共通点
子供の頃に、少年ジャンプに掲載された「飛ぶ教室」を読んで好きになり、コミックをずっと持っていました。
ある時に「最後の子どもたち」も、「飛ぶ教室」と同じく核戦争後の世界を書いた作品であるのを知り、いつか読もうと買っておいたんです。
・・・・・・すっかり忘れていました。今となってはホントにごめんなさいって感じです。もっと早く読めば良かったよ。
二つの作品は、核戦争後の世界が、子どもの目線で描かれるという共通点があります。
違うところは、「最後の子どもたち」には絶望しかない点。
こんな世界になってからでは遅いんだ、という警鐘を鳴らす作品。
「飛ぶ教室」はそれでも希望がある。
子どもたちだけでも力を合わせて生きていくんだ、という作品です。
●「最後の子どもたち」というリアルな絶望
ドイツの女性作家、グードルン・パウゼヴァングによって1983年に書かれた小説です。
・「最後の子どもたち」のあらすじ
舞台は西ドイツ。
主人公は12歳の少年。
夏休み期間を母方の祖父母の家で過ごすため、少年の家族は車で出かけます。
その途中、ある街に核兵器が落とされます。
警告や宣戦布告、戦争状態になるといった予兆や予告もなく、核戦争が始まったのです。
人々のうわさでは、複数発の原爆がドイツ国内に落とされたようです。
核攻撃後の混乱と絶望の中で、少年がどう生きなければならなかったのかが書かれます。
この本は少年の視点で進みますので、世の中や世界がどうなったのかは、全く分かりません。
核攻撃を受けた市民の、グロテスクともいえる残酷な描写もあります。
人間の醜さや暴力、大人たちの愚かさや無責任、利己的な行動も書かれています。
情け容赦なく、人々が死んでいきます。
主人公の姉も、病によって命を落とします。その頃には、美しい髪がすべて抜け落ちてしまっています。
私が特に胸をえぐられたのが、お城に住む子どもたちのグループの描写。
助けてくれる親や大人たちもおらず、怪我を負った子どもたちが集まって生活を始めます。
左目と左腕が無い子、顔じゅうに火傷を負った子、盲目の子、精神が病んでしまった子。
体が不自由になってしまった子たちで団結して生き延びています。
その中の一人の少年、両足のないアンドレアス。
彼は古い乳母車に乗って、仲間に助けてもらいながら生活しています。
アンドレアスはお城の壁に「大人なんてクソくらえ」と落書きをしています。
そのお城の子供たちも、飢えや寒さ、あるいは怪我の影響により、人数が減っていきます。
そしてついに、自分の乗る乳母車を誰にも押してもらえなくなったアンドレアス。
雪の中に一人で放置されていた彼は、主人公にあるお願いをします。彼は赤く腫れあがった手で、首を吊る縄を編んでいました。
手を貸す決断ができない主人公は、彼に聞きます。
「ねえ、もし死んだら、あの世でまた両親や友達に会えると思う?」
アンドレアスは言います。
「両親にはもう会いたくない。(中略)大人の世代の連中にも会いたくない。だって、大人がこんなことになるのを防ぐべきだったんだ。(中略)ぼくらがどうなってもいいんなら、なんで僕らを産んだんだ?」
最後の章で、このお話は17歳になった主人公が書き記したものだと分かります。
町には学校もでき、2つあるクラスのうちの、小さい子のクラスを主人公は担当しています。教室はお城の一階を利用しました。
少しずつ、町は良くなっているようにも見えます。
しかしながら、主人公の髪の毛が抜け落ちてきていること、新たに生まれた子ども達の多くが障がいを抱えていること、子どもたちに勉強を教える2つのクラスをそのうちに1つにしなければならないだろうという点が記載されています。
そして、自分たちが「最後の子どもたち」であること。
以上の点から、暗い未来が暗示されます。
・「最後の子どもたち」に込められたメッセージ
子どもには、大人の行動が無責任で愚かにしか感じられない時があります。
それが、大人になるにしたがって、いろいろなしがらみとか状況などがあって、やりたくてもなかなか出来ないことがあると分かってきます。組織とか立場とか責任とか都合があって、流されてしまう意見、無視される考えがあると分かる。
現実の世界なら、子どもは大人になることで、大人の考え方を学びます。
大人も子どもに対して、「大人になれば分かる」なんて言って、話をごまかしたりします。
それが、この世界では、「最後の子どもたち」になってしまっている。
子どもが子どものまま、死んでいく世界。子どもが大人になれない世界。
だからこそ「大人は愚かだ」というアンドレアスの言葉が悲しい。
「最後の子どもたち」は「こうなる前になんとかしなければならない」というメッセージ性がとても強い作品です。
核戦争後の世界では、希望の象徴である子どもが生きられません。
それは絶望と同義なのです。
●「飛ぶ教室」にはそれでも希望がある
エーリヒ・ケストナーが書いた、同じ題名の児童文学作品がありますが、マンガの「飛ぶ教室」のタイトルはここから付けられました。作者はひらまつつとむ。1985年の作品です。
埼玉のある小学校が舞台。
校庭に新設された核シェルターが突如警報を鳴らしたため、たまたまその近くに居合わせた、1年3組の39人、4年2組の41人、6年2組の42人、合計122人の生徒と、6年2組の担任、北川先生がシェルターに避難した。
直後、シェルターを大きな揺れが襲う。
1ヶ月の後、シェルターを出た彼らが見たものは、核攻撃を受け荒廃した世界だった。
やがて、北川先生は放射能の影響により命を落とす。
子ども達は力を合わせ、核戦争後の世界「核の冬」を生きていく。
ショッキングなシーンも無いわけではありませんが、少年マンガということもあってか、北川先生が亡くなるシーンなども、とても美しく描かれています。
核戦争後の世界を生き抜くという、子ども達だけではとても困難な状況なのですが、それでも彼らならたくましく生きていくのではないかという、希望が感じられる作品です。この子ども達なら成長し、大人になるだろうという希望があります。
作者自身も語っているのですが、 「飛ぶ教室」には最高のシーンがあります。
私も、当時の少年マンガ界でも、屈指の名シーンだと思います。だからずっとコミックを持っていたと言っても過言ではありません。
作者が描きたかった瞬間
本当に象徴的なシーンです。
複数人と一人。
先生を想い、笑う者と泣く者。
真実を知らない者と知る者。
過去の思い出話と遠くない未来の先生の死。
同じ部屋にいる人物が、実に対照的に描かれています。
大人が過去の話となり、子ども達だけで生きていかなければならない未来を暗示しています。
素晴らしい1ページです。
そうそう、「飛ぶ教室」には、なんと続編が出ているようですね。
ちょっと高くて買ってませんが・・・・・・。
●今の世の中は核戦争への恐怖が薄れている
一時期、世紀末などで「核戦争」とか「終末時計」が話題になりましたね。
しかし今はそんなに聞かなくなりました。核戦争の恐怖が消えたわけではないのですが。
「終末時計」的には、今が人類史上、最も危険な状況らしいです。知ってました?
むしろ、最近ではコロナウイルスの影響もあってか「人類が滅ぶならウイルスだろう」なんて話も出てきたくらい。現時点で世界合計95万人もの人々が亡くなっていますので、恐れてしまうのも分かります。
核兵器について考えた場合、日本はアメリカ・中国・ロシアという大国に隣接し、難しい立場や立地です。北朝鮮の危険性もある。
被爆国でありながら、その核兵器を使用したアメリカに、核の傘で守ってもらう立場。
なんという皮肉でしょう。
それでも私としては、核兵器に反対する立場でありたいと思います。
ついつい忘れがちですが、核兵器が使用されるのはフィクションとか遠い未来の話ではないという点。
広島や長崎という犠牲があったのです。
核兵器が使用された後の世界に我々は生きているのですよね。
「最後の子どもたち」と「飛ぶ教室」は、誰の話なのか。考えさせられます。